―愛の賛歌―



ねぇ、透。

もしあなたと出会っていなければ、私はどうしていたかしら。

体と心の違和感に苛まれながらも、これが現実なのだとあきらめていたかしら。

今でも時々、夢ではないかと思う時があるのよ。








(ぬる)い初夏の夜風が頬を掠めて、雨が降りそうな空模様。

月には輪が掛かり、星の光もぼやけて見える。

「そうだな、俺は夢であって欲しいよ・・・」

「透・・・」

薄暗い屋上の入り口から、透がゆっくり近づいてくる。

たぶんギッと睨んだ目をしているのだろうけど、今宵は届かない月の光でその表情はわからない。

「真澄、そのまま・・・ほら、俺の手につかまれ」

つかまれと言った透が、待ちきれないように私の腕を掴んだ。

フェンスの内側。ほとんど倒れ込むように透の胸に覆い被さり・・・

「透・・・透?」

はじめて透の震える肩を見た。

透が無言で私を抱きしめ続ける。強く激しく、狂おしく。


「真澄、これで三度目だ。・・・フェンスの外に立つお前を見るたび、
俺はこれが夢であってくれ
と願わずにはいられなかったよ」

ようやく口を開いた透から聞こえた言葉は、怒鳴るでもなく諭すでもなく、ただ静かに深く私の心を包み込んだ。

間近で見てもぼやける透の顔。

星の光がぼやけて見えたのは、私の涙のせいだったのね。


透の胸で、尚も涙は止めどなく溢れ続けた。










二月(ふたつき)ほど前は、まだこんな温い風は吹いていなかった。

昼間の爽やかな乾いた風が私に嬉しい便りを知らせてくれて、幾分肌寒い夜風はアルコールで火照った私の身体を心地良く冷やしてくれた。


宏之の結婚。

母から電話で聞かされた時、これで宏之に対する心の重荷が取れたような気がした。

宏之の彼女の存在は知っていたけど、結婚となると私のことが障害になるのではないかという危惧があったから。

宏之におめでとうと電話をして、最後にごめんねと言うと、

「何が?」

と、ぶっきらぼうに問い返された。

「何って、私のこと・・・。宏は黙ってるような子じゃないものね。
彼女や彼女のご両親に私の・・・
子供の頃のこと・・・」

「何、わけわかんねぇこと言ってんの。子供の頃も今も同じだろ。
自分の結婚の時どうだったん
だよ」



―机の中央に置かれた一枚の用紙。

『戸籍謄本』

私の性別欄が女性になっていた。

父と母は私が戻って来てから一年間、病院、カウンセラー、裁判所、県庁、市役所に何度も足を運び、私を名実ともに女性にしてくれた―


私の過去も現在もそしてこれからの未来も。


市役所に透と婚姻届を出しに行った時は心臓がドキドキした。

本当に受理してもらえるのかという不安が胸いっぱいに広がって、知らず知らずの内に透の手をぎゅっと握っていた。

透はそんな私に少し意地悪な笑顔を向けて

「真澄、緊張してるのか?あははっ、俺の高校受験の時の気持ちがこれで少しはわかっただろ」

昔の思い出の(かたき)を取ったように言った。



―十五歳。春まだ浅く、学生服にコートを着て高校の入学発表を透と一緒に見に行った。

透は何日も前からソワソワドキドキ。大丈夫だからって何度言っても


上原は受かって当然の成績だからな。あ〜ぁ、やっぱ無理したかなぁ・・・


むくれたり、弱気の発言をしたり―



「何よ・・・そんなのと一緒にしないで。それとこれとは全然違うわ」

「違わない、抱える不安の大きさは同じさ。・・・だけど今はもう、俺はあの頃の俺じゃない。
澄、俺が傍にいても不安か?」


子供の頃も、透が傍にいるだけで安心だった。

家を出ていた十年間でさえ、透の幻影を追い続けていたから頑張れたの。

「透・・・」

透が私の手を握り返し、自分の脇に引き寄せた。

「すみません。これ、お願いします」

「はい。おめでとうございます」

簡単な確認作業だけで、何を問われることもなく終わった。

心配することはなにもなかったの
に、私は窓口の前で俯いたまま顔が上げられなかった。

当たり前に受理される、戸籍謄本の威力。

父と母の尽力。

私を抱き寄せて離さない透の手。


「皆さん・・・特に奥様の方は、感激されて号泣される方もいらっしゃいますよ。
私は皆さんの幸
せを分けて貰っているようで、役得です。ありがとうございました」

係りの人の優しい笑顔の前で、私たちは夫婦になった。

透がそっと私に囁いた。

「さぁ、帰ろうか。奥様」

結婚式も入籍も、そこにあったのは喜びと感動と皆の愛。







「・・・・・・心配することないわね」

「ん、俺のことよりも真澄はもう少し自分の我が儘を直せよ。
義兄さんと揉めるたび俺に電話し
て来るけど、俺もこれからはそうそう相手してやれねぇからさ」


小さい頃の宏之は可愛かった。

子供の頃の五歳違いは大きくて、ケンカにもあまりならなかった。


―宏くん、宿題見てあげるから持っておいで―

―ゲームしよ!宿題は後からするぅ。ねぇ、いいでしょ―

―だめだよ。宿題してから、ゲームしようね―

―・・・・・宿題ナイもん―

―本当?連絡帳に書いてあったよ?宏くん、ウソツキさんはどうなるの?―

―・・んと・・お尻ペチンされるの・・・―

―そうだったよね。じゃあ、宏くんは?―

―ふぇぇ・・ん・・ボク、ウソツキさんじゃないぃ・・・―

―そうだね。宿題見てあげるから持っておいで―

―はぁい!!―







「・・・生意気」

「はぁ?」

「生意気って言ったのよ!透と同じようなこと言わないで!それに何?少しくらい私に付き合っ
たからって!
私だってしょっちゅう宏に付き合って宿題見てあげてたじゃない!」

「おいっ!待てよ、真澄!いつの話して・・・」

「忘れたなんて言わせないわよ!それから呼び捨てにしないでって、いつも言ってるでしょう!」


小さかった弟は離れていた十年で私の背を追い抜き、兄弟から姉弟として再び暮らし始めて
からは、言葉少ないながらも私の声の届く範囲に必ずいてくれた。

身も心も成長した弟は、いつの間にか姉の私に意見するようになっていた。










「それが生意気だっていうのよ。小さい頃は私が言い聞かせていたのに」

「まだ小さい子の方が、聞き分けがいいでしょ。
宏之君は酔っ払いのお姉さんを言い聞かせて
は、連れて帰っていたよね」

マスターの前で宏之の愚痴をこぼしたら、案の定意地悪な言葉が返ってきた。

「そうなんだよ、マスター。宏もそろそろ真澄から解放してやらなきゃ、可哀相だからね」

相槌を打ちながら、さらに透が輪を掛ける。

まるで組んだように、二人とも口を揃えて私の我が儘を指摘する。失礼しちゃうわ。

ママはお客の私がマスターに意地悪を言われていても、いつだって知らん顔。

ママは私のこと、お客と思ってないみたい。

だけど今日みたいに透と二人で揃って顔を見せると、まるで自分の娘のように手放しで出迎え
てくれる。


「せっかく宏の結婚を報告しに来たのに。何よ、みんなで私のことばかり。
唯一味方のトモ君も
いないし」


―真澄ちゃん、あの子昔の君によく似てるだろ?―


昔の私に似ているとマスターが言っていたトモ君。

最初の頃はいつもおどおどとしていて、ようやく少し慣れて話をするようになったところだったの
に。

彼女に赤ちゃんが産まれて、

「この子の親として、もう一度きちんと出直します」

そう言って店を辞めたと、マスターから聞かされた。


トモ君、と呼ぶと、

―「はい!」

きびきびとした、夜の世界には似つかわしくない体育会系の返事と明るい笑顔。

「本当です。篠田さんは僕の憧れです」

若々しい屈託の無い笑顔が眩しかった―


もう会うこともない、彼はあきらかに昼間の人間だった。



「真澄ちゃん、今日はこれでオーダーストップだよ」

空のグラスをコースターに置いたら、催促する前に先に言われた。閉店時間でもないのに。

横を見ると透がさっさと会計を済ましていた。

自分だけいいように出来上がっていて、店の女の子たちと上機嫌でしゃべっている。

私はまだ飲み足りないのに。だいたい透より私の方がお酒は強い。

「マスター、まだ時間はたっぷりあるわよ。透は先に帰って。私は宏に迎えに来てもらうから」

「真澄、さっき話したばかりだろ。そろそろ宏を解放させてやらなきゃなって・・・」

「そんなの透が勝手に言っているだけじゃない!宏は私の弟よ!」


透と宏之は仲が良かった。

もともと私と透は中学生の頃はよくお互いの家に行き来していたので、宏之も昔から透のこと
は知っていた。

私たちが再び会えたのは、透が宏之にずっと連絡を取っていたから。

私が透の幻影を追い続けていた十年、透は私の存在を追い続けていた。

十年ぶりで会った透はすっかり子供の顔が抜けていて・・・だけど、

「上原、久し振り」

そう言って笑った顔は眩しくて眩い、私が大好きだった笑顔そのままだった。





「真澄、明後日は病院だろ。その辺で切り上げておかないと検査に差し支えるぞ」

透が私からグラスを取り上げながら、小声で耳打ちした。

最近また体のだるさを感じるようになって、診察のついでに検査もしてもらうことになっていた。

「大丈夫よ、アルコールなんて一日経ったら抜けるわ。私は透みたいに二日酔いなんてしたこ
とないわよ」


明後日は私が通院している大学病院の予約日だった。

その大学病院は私のような疾病者を広く受け入れており、外科的治療とそれに伴う内科的治
療(免疫やホルモン)が同じ科で統合されていた。

私の場合も免疫やホルモンの関係があるので、普段の病気から病院については大学病院で
診てもらっていた。

体がだるくなることは度々あった。

特に最初の頃は頻繁にあって、その度に検査もした。

でもそれも年を経る(ごと)にだんだん落ち着いて、結婚してからは初めてのことだった。


「・・・そうだな、お前が強いのは知ってるよ。だけど今日はもうこれで切り上げてくれないか」

透はどんなに仕事が忙しくても、私が病院に行く日は会社を休んでついて来てくれた。

いつもなら売り言葉に買い言葉となるような口喧嘩も、病院のことになると透が先に折れる。

の時だけは、透はどこまでも優しかった。



透が初めて私に付き添って大学病院へ行った日、


―ここで真澄は頑張ったんだな・・・一人で―


待合室の椅子に並んで座る横から、漏れ呟く声が聞こえた。





結局、透に睨まれなくてもママに睨まれて席を立った。

それでも店の外に出ると、飲み足りないと思っていた割には、幾分肌寒い夜風がアルコールで
火照った私の身体を心地良く冷やしてくれた。



私の幸せは

私を取り囲む人達が持っている

ママは叱り役でマスターは慰め役

宏之は生意気だけど可愛い私の弟

両方の父と母は遠くで私たちを見守り

手が触れるその距離には透がいる

それは私の喜び 愛する人たち 無上の愛



しかし運命は、どこまでも私に愛することの意味を突きつける。


前に二度、屋上のフェンスの外に出た時は、

―この身にぎりぎり危険なことで、やり切れない自分の思いの代償としたかっただけ―

今夜の月は輪が掛かっている・・・・・・。

夜陰の月。空を見上げてここに立つ私の心境は、これまでの二度のものとは違っていた。


このまま足を一歩踏み出したら、そうしたらこの苦しみから逃れられるのかしら。










あれから二月(ふたつき)。

大学病院で診察と検査を受けて、何ら変ることはなかったはずなの
に。

少し体がだるいのは、いつものホルモンバランスのせいだと思っていたのに。

透が主治医に呼ばれ、私の周囲が慌しく動き出し、なのに私だけが愛する人たちの顔から笑
みが消えて行くのをただ呆然として見ていた。


―篠田さん、サイレント・キラーはご存知ですか。肝臓は自覚症状が出にくく、早期発見が難し
い臓器なんです。
奥さんの・・・真澄さんの症状はすでにステージ・・・―

―原因は、原発性なのでなんとも・・・。輸血や注射針等での感染は十年くらい前でしたらまず
考えられませんが・・・絶対とは言えません―

―手術をした場合の五年生存率は・・・・・・・・―

―治療法については先ほども言いましたが、けして手術だけがベストではありません。
本人の意向が
非常に大事かと思います。お二人で話し合って・・・・・・・―



私に本当のことを話さなければ、治療の選択が出来ない。

それから透は毎晩私を膝に抱いて、少しずつ二人の問題として話をした。

透もまた、宣告という苦しい決断を自らに架して。

その間も、幾度父の憔悴した姿と母の泣き腫らした目を見たことか。

お父さん、お母さん、また親不孝をしてしまってごめんなさい。

私はこの先どう生きて行けばよいのでしょう。

このままではずっと不幸をかけるばかり・・・お父さん、お母さん!


宏之が突然夜遅く家に来て、入ってくるなり透に掴み掛かった。

「何で真澄に言ったんだ!!黙ってろよ!!嘘だってばれていても言うな!!絶対話すなって
言っただろ!!」

透は黙って宏之のされるままになっていた。

胸倉を掴まれて壁に何度も打ちつけられ、頬を叩かれて口の中を切った。

透と宏之は仲が良かったはずなのに。ああ・・やはり私のせい。


「宏!止めて!!透に乱暴しないで!!」

宏之の後ろから抱きかかえるようにして止めに入った。

「真澄!危ないから離れろ!!」

透の怒声に、宏之の動きが止まった。


「宏・・嘘をつくのは苦しいでしょう?」

背を向けていた宏之が振り返った。いい年をして、溢れる涙で鼻を真っ赤にしていた。

「私がウソツキさん嫌いなの、知っているでしょう」


―ふぇぇ・・ん・・ボク、ウソツキさんじゃないぃ・・・―


宏之は背を丸めて、透の足元で泣き崩れた。










薄暗い屋上の入り口から、透がゆっくり近づいてくる。

「真澄、明日の命を誰がわかる?俺は何歳まで生きる?わからないことに悩んでいる
暇はないんだ。
俺は現在(いま)をお前と生きていたい。それだけだ」

「・・・透、私は?そしたら私は?」

「俺にはわからない。お前にはわかるのか?真澄、お前は何歳まで生きる?」

フェンスの内側真正面から、透が私に問い詰める。

「真澄は、わかるのか?」

「わからない・・・けど・・・」

「・・・けど?」

「透といたいの!ずっと透と一緒に生きて行きたいの!」

「真澄、そのまま・・・ほら、俺の手につかまれ」

つかまれと言った透が、待ちきれないように私の腕をつかんだ。

フェンスの内側。ほとんど倒れ込むように透の胸に覆い被さり・・・

「透・・・透?」

はじめて透の震える肩を見た。

透が無言で私を抱きしめ続ける。強く激しく、狂おしく。

ここは屋上なのに、いつまでも温い風が私の涙を乾かすことなく吹き続けていた。






透が私を離さない。

屋上から部屋に戻っても、腕の中、囲うようにして離さない。

ああ・・・そうだった。

私はいつも抱かれていたの。

こんなふうに抱かれていたの。

ベッドに私を横たえて、透が唇を重ねてくる。

強く、優しく、愛しむように。

「透・・・」

「・・・少しは落ち着いたか」

「・・・・・・ごめんなさい」

私はあなたに謝らなくてはならなくなった。

とてもたくさんのことを、謝らなくてはならなくなった。


「ほら、また・・・姉弟揃って泣き虫なんだからな」

私の頬を撫でる透の指先が、涙で濡れる。

「透、苦しいの。私はみんなを悲しませてばかり・・・」

「苦しいか・・・真澄はすぐ忘れるから。俺がいるだろ」


―人を羨むことなく子を育てるように慈しみ、助け合い、二人でひとつの人生を・・・―



私の苦しみの淵には いつも透が立っている

それ以上行くなと 大きく手を広げて

その先を行こうとする私を抱き留める

人を愛するということはどうしてこんなにも苦しいのでしょう

だけど愛は生まれるの 愛は人の強さと弱さ

生きる歓び



「今度、お義父さんとお義母さんに会いに行こう。宏の結婚式の日取りのことも聞いておかない
とな」

「・・・お父さんとお母さんの笑っている顔が見たいわ」

「だから二人で行くんだよ。二人で行くとご機嫌だからね」







それから暫らくして、私たちは父と母に会いに行った。

(ぬる)い風の吹く初夏は過ぎて、セミの鳴き声に変わる夏の夕暮れ、父と母、私と透の四人
で夕餉の食卓を囲んだ。

父も母も苦しみは理性の内に(こら)えて、私たちを笑顔で迎えてくれた。

宏之の結婚のことやあちらのご家族のこと楽しい話題は尽きず、最後は宏之の小さな頃の話
まで飛び出した。

頃合いを見計らって、透が今後の私のことについて話を切り出した。

父も母もさすがにその時には笑顔はなかったが、黙って透の話を聞いていた。


私の治療方法については、主治医と私、透の三人で何度も話し合った結果、手術は避けて投
薬(化学)療法を選択することにした。

体力の続く限り通院での治療を希望し、入院に至った場
合には、大学病院内の緩和病棟(ホスピス)に入る旨の了承を取り付けた。


クオリティ オブ ライフ (生活・生命の質) 


私は精神的豊かさの中で生きることを選んだ。


「お義母さん、真澄は大丈夫ですよ」

「透君、真澄を宜しく頼みます」

透の言葉に、母は声が出ないようだった。父が代わりに頭を下げた。

「お義父さん、これからはこちらがお願いするんです。どうか真澄を助けてやって下さい」


「お母さん、助けてね」

声の出ない母の手を両の手で包み取ると、母はその上に涙を落とした。

ああ、また母を泣かせてしまった。

ごめんなさい、お母さん・・・だけど私はこの涙に、生きることを誓います。






治療は投薬のきつい副作用もあって、寝たり起きたりの日が続いた。

家事についても、

―お母さん、助けてね―

その言葉通りに、母に甘えた。

母は家事の合間に、うつらうつらとする私の体を擦り続けた。

目が覚めると母の顔があって、まるで抱いてもらっているようだった。

母はじっと見つめる私の頭を撫でながら「やっと子に甘えてもらえる親になりました」と言って、
目を細めた。



一日の大半を寝て過ごす日は、夢もよく見るようになった。

それもほとんど、夜の世界で働いていた頃のこと。

私に貢いでくれた有閑マダムや言い寄って来たホスト仲間たち。

ママやマスター。そのころはいないはずのトモ君が、隅っこで立っていた。

そして私は、最初から女だった。

夜、透に夢の話をすると、トモ君が・・・と不機嫌そうに呟いた。

「いやだわ、透ったら・・・やきもち?」

たかだか夢の話にも、透は憮然とする表情を隠さなかった。

「悪人じゃないけど退治してやる。・・・抱いていいか、真澄」


私はみっともないほど、痩せてはいないかしら。

私の肌はくすんでいないかしら。

私の乳房は、唇は・・・その憂いの全てを否定するように、透は私を抱いた。


静かに私の体を割り開き、キャミソールの肩紐を外し露わにした乳房に手を添えると、撫でる
ように動かし始めた。

「可愛いなぁ、真澄は」

そんなことを言いながら、愛撫を続けた。


透は前ほど私を求めなくなった。

その代わり抱く時は必ず訊くようになった。

たまにあった義務のようなおざなりさはなくなり、柔らかに包み込むような前戯は私の体の負担
を最小限に抑えつつ、深い官能を誘った。

唇は触れ合う程度に重ね、息が詰まらないようゆっくり舌を絡める。

透はキスさえも慎重にするようになった。



昼は母に抱かれ、夜は透に抱かれながら過ごす日々。

半分夢の中にある私の意識は、時に時間や日にちが混濁した。

しかしそんな私の意識の横で、時計の秒針は正確に時を刻み日は流れて、季節は移ろいを見
せる。


突き抜ける青空にうろこ雲のかかる晩夏、ママから手紙が来た。

「ママ・・・」

すぐに開封したい衝動に駆られたが、封書は透との連名になっていたので、仕方なく透の帰り
を待つことにした。


私のことについては、透がママに話を伝えていた。

ママは透の話に、一度も言葉を挟むことなく聞いていたという。

そして正した姿勢のまま

「篠田さん、お教えいただきありがとうございました」

ママが透に言ったのは、そのひと言だけだった。



「招待状・・・私と透、二人だけの貸切りですって!・・・だけど、何の招待かしら?
日にちも書い
てないのよ。ママったらどうしちゃったのかしら。透、聞いてみる?」

帰宅した透の着替えも待ちきれずに開けた封書は、招待状だった。

透は背広の上着とネクタイを外しただけで、私の横に寝そべった。

「いや、昼間マスターから電話があったよ。
ママが招待状を出したけど日にちを書き忘れている
から、真澄ちゃんの都合の良い日を連絡して下さいってさ。
招待は、ママが真澄の顔を見たい
からだそうだ。・・・ママらしいな」


「会いたい・・・」

「・・・行こうな」

透は服も着替えぬままに、すぐ不安定になる私を抱きしめる。

私の身と心を抱きしめる。

かろうじて私に残された理性が、透に「いつ?」と聞くことを(とど)めさせた。





気候の厳しい夏は寝込む日が多かったが、凌ぎやすい気温になると日中は随分と起きていら
れるようになった。

治療は順調に進み、副作用についても初期の頃に比べ上手に付き合っていけるようになっ
た。

家事も出来る限りして、出来ない時は今まで通り母に甘えた。

それが返って、心配性な母を安心させることになった。

体の調子が良い時は、週末は透と近場のドライブや小旅行を楽しんだ。



―これから先の人生は二人だけの時間

休日には買い物に出掛けよう

連休にはガイドブックを片手に遠出をしよう

君の誕生日にはバラの花束と俺の時間をあげよう―



「透が言ったのよ、やっと約束を守ってもらえたわ。・・・バラの花束はまだだけど」

「俺が?いつ?」

「結婚する前に言ったじゃない。覚えてないの?本当にそんなところいい加減なんだから」

「そっか、じゃ後はバラの花束だけだな」

私の冗談交じりの批判を、透は軽く受け流した。

以前ならすぐ口喧嘩になるようなことも、今ではお互い笑って話せるようになった。

私が起きていることが、透にもやはり嬉しいことのようだった。


夕食の後片付けをしていると、TVを見ているとばかり思っていた透が私の方を見ていた。

「なぁに、透?見ているのなら手伝ってよ」

「いやだ。どうせちゃんと拭けてないとか、二度手間だとか言われるだけだからな。
・・・真澄、マ
マに会いに行くか?」










そこはネオン輝く一等地。夜の静寂に逆らう喧騒の世界。

私はその世界に十年いた。

仮面を被って働いたホスト時代。

空白の時を経て、華やかに舞い戻ったホステス時代。

そのどちらの私も知る、ママとマスター。

―私の心の拠りどころ―

私の都合の良い日は、体調の良い日ということだった。



秋の夜空にしては珍しく星の降る夜、私たちはママの招待を受けて店に行った。

ドアを開けると

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」

深々とお辞儀をして、私たちを出迎えるママがいた。

「ママ!」

会いたかった人が目の前にいる。私は思わずママに抱きついた。

「元気そうで何よりです」

ママは冷静だった。ママの姿勢は崩れることはなかったが、私の頬に当てた手は熱かった。


「コートをお預かりします」

若い男が私の後ろからコートを脱がす。

聞き覚えのあるその声は、心なしか緊張しているよう
だった。

「トモ君・・・」

「久し振りなので・・・しかも憧れの方なので・・・緊張しました」

もう会うこともないと思っていたトモ君は、やはり夜の似合わない涼やかな眼差しで微笑んでい
た。

「ありがとう。あっ、待って。子供が生まれたって聞いたわ、おめでとう。あなたに直接言えて良
かった・・・」

一瞬トモ君の目が潤んだ。

彼はそれを隠すように、慌てて頭を下げた。


ママの先導で私と透はボックス席に通された。

私と透が並んで座り、向かいにはママが座るとばかり思っていたのに、ママはさっさとカウンタ
ーの中へ入ってしまった。


「いらっしゃいませ」

「マスター!会いたかったわ!」

ママと入れ替わりに、今度はマスターがカウンターから私たちの席に来た。

「僕もだよ、真澄ちゃん。トモ君、飲み物お持ちして」

「マスター、ノンアルコールならいらないわよ」

私の注文に、マスターは嬉しそうな顔を透に向けた。透は何も言わなかった。

マスターと一緒に、黙って笑っているだけだった。

「まさか、こんな日にノンアルコールは野暮でしょ」

そう言って私の前に差し出されたのは、いつもの私仕様のロック。

ただ大きめにカットした氷の隙間にも、小さな氷の粒がたくさん入っていた。

「もう、マスター。これじゃ、すぐに水になっちゃうじゃない」

「水になってもアルコール風味のおいしい水だよ。ゆっくり飲みなさいね」

マスターは、やんわりと私の注文を下げた。


「相変わらず我が儘言ってんだな、真澄は」

「宏!」

「お義姉さん、お久し振りです。お・・元気で良かった・・・」

宏之も彼女と招待されていた。宏之の彼女とはこれまでに何度か面識があった。

おとなしい可愛らしい彼女だった。

はじめて会った時から、お義姉さんと呼んで慕ってくれた。

声を詰まらせながらも、場を壊さないようにと必死で笑顔を見せる気遣いが健気だった。

「宏たちも招待されていたのね。どうしたの?座らないの?ねっ、聞いていたでしょ。
宏は私の
ことを呼び捨てにするのよ、あなたはちゃんとお義姉さんと呼んでくれるのに」

「また始まった・・・俺たちは向こうの席へ行くよ」

私の言葉を受けて「宏之さん!」と睨む彼女の腕を、宏之は引っ張って促した。

「いいじゃないか、宏。そこに座れよ。この間、宏の小さい頃の話で盛り上がったんだ。彼女にも聞かせてあげたいな」

透が意地の悪い顔で、にやりと笑いながら宏之に言った。

「・・・・・勘弁してくれよ、義兄さん」

透と宏之はもう普通だった。あの日の(いさか)いの後、二人がどのように和解したのか私に
はわからない。

その件について透も宏之も何も言わなかったし、私も聞くことはなかった。

私は二人を信じていればそれで十分だった。


宏之たちはいくつか離れた席に座った。

マスターやトモ君もカウンターの方に帰ってしまって、結局私たちだけになってしまった。

「みんなに会いに来たのに・・・」

「いいんだよ。みんなは真澄の顔が見えるところにいるから」

会いたかった人たちに囲まれながら、透と過ごす二人の時間。

何ものにも代えがたい愛に満ちたひと時。


「篠田夫人、花束が届いております」

愛が彩られる。

トモ君から手渡された花束は、今夜の私のドレスとお揃いのような真紅のバラの花束だった。

「俺からだ」

「透・・・私の誕生日はまだよ」

嬉しいくせに、言葉が見つからなくて意地を張ってみる。

「知ってるよ。だけど忘れないうちにしておかないと、またいい加減だとか嘘吐きだとか言われ
るからな」

意地を張る私に反して、透はいたって真面目だった。

夕食の後片付けの手伝いを頼んだ時もそうだったけれど、意外にも透がそんな私の言葉を気
にしていたのが可笑しかった。

「たっぷり水分を含んだ綿とガーゼで、茎のところは包んでいるから」

透は花束を花瓶に活けることを頼もうとはせず、無造作にテーブルの上に置いた。



やがてシーリングライト(メインの照明器具)の明かりが落ちて、フロアライトに光が灯った。

光はバラの花を射(さ)し、真紅の美しさを際立たせると同時に私を横から照らした。


「綺麗だ・・・真澄」

―綺麗だ・・・上原―

再会した日の時と同じように、透は呟いた。





私が家に戻り家族の生活も落ち着きを取り戻した頃、宏之から透が会いたいと連絡があった
と聞かされた。

私は片時も忘れたことはなかったけれど、透も覚えていてくれたことが信じられないほどに嬉し
かった。

女性として会うことに躊躇(ためら)いはなかった。

それが私の十年だったから。


[ ・・日・・時、・・・駅の広場の時計台で ]

私の携帯に入った透からの伝言は、いたって端的なものだった。

当日駅の広場の人いきれの中、時計台の下にもたくさんの人が立っているにも関わらず、真
直ぐに私の方に向かって歩いて来る男性が見えた。

篠田君?・・・篠田君かしら?

私の疑問とは裏腹に、彼は迷うことなく私の前に立った。

「上原、久し振り」


―そう言って笑った顔は眩しくて眩い、私が大好きだった笑顔そのままだった―


「・・・篠田君。どうして私がわかったの?」

何も目印になるようなものは言ってなかったのに。

他にもたくさん女性の人は立っていたのに。

―やはり私には違和感が・・・―

「すぐわかったよ。背格好って案外変わらないものなんだな。遠目の方がよくわかった。だけ
ど・・・」

透はあっさりと私の疑問を解き、そしてこだわりをも取り払ってくれた。


「綺麗だ・・・上原」







花束の次にグランドピアノの豊かな音色が、小さく灯った明かりの向こうから流れてきた。

互いの愛しい人のための、バラード。甘く、優しく、切なく。


「マスター・・・」


マスターの大きな手が軽やかに、長い指先が繊細に、鍵盤を弾く。

ピアノ演奏はやがて緩やかな曲線を描くように消音域に入り、音色が止まった。

「上手いはずだ・・・。ピアニストを目指していたらしいよ」

透はマスターがピアノを弾くのを知っていたようだった。

「マスターったら、そんなことひと言も私は聞いてないわよ!」

私はマスターがピアノを弾くなんて全然知らなかったのに、透がそれを知っていたのが少し悔し
かった。

「昔の話さ。指が動かないんだ、小指の第一関節。ピアニストになりそこねた」

マスターは十本の指を、笑いながら広げて見せた。

「悪さばかりしていたから、自業自得ですよ」

それまで黙っていたママが、私を叱るときのようなきつい口調でマスターに言った。

マスターはオーバーなジェスチャーで首を竦めた。

「どこも同じだな、弟は弱い。・・・ママとマスターは姉弟なんだよ。父親違いのね」

「姉弟だったの!?」

また透は私の知らないことを知っていた。

「そんな顔するなよ、俺もつい最近さ。この間マスターから聞いたんだ」





マスターの思春期は、ピアノを弾くことと姉に反抗することだったという。

二人の母親はとうに居ず、ママがマスターを育てた。

ママはマスターが一人で過ごす時間が寂しくないようにと、ピアノを与えた。

マスターはママが思う以上にピアノにのめり込み将来を嘱望されるほどになったが、高校に上
がり始めるころから目立って素行が悪くなった。

ちょうどママが店を持ったころで、ママはほとんどマスターと顔を合わすことが出来なかった。

ママのせめてもの埋め合わせは、マスターに金銭の不自由なくピアノを弾かせることだった。

しかしマスターにとって、ピアノを弾くことと家族のいない寂しさは別のものだった。

すれ違う思いが確執を増幅させた。

ピアノを弾きながら、酒とケンカと女の毎日。


―そりゃ、もてたよ。ちょっとピアノ弾いたら100%の確率で落とせたから。
けど、長く続かなか
ったけどね。手やられて。その後はめちゃくちゃさ―


姉と弟。私たちの前では、微塵も身内関係を出さなかったママとマスター。

私を受け入れてくれた二人もまた、肉親の愛ゆえに苦しみの淵を歩いて来た人たちだった。





「トモ君、準備出来たよ。いつでもOKだから」

マスターの呼び掛けに、トモ君がグランドピアノの響板の前に立った。

「篠田さんにお会い出きると聞いてから、考えていました。
篠田さんは僕のお手本、夫人は・・・
憧れです。あの・・・」

「真澄ちゃんに、歌をプレゼントするそうだよ。彼は小学校まで合唱団にいたから、上手だよ」

顔を真っ赤にして照れるトモ君の後を、マスターが伝えた。

「もう・・みんなずるいわ。私には何も言ってくれないんだもの」

「やっ・・僕はクラブ活動みたいなものでしたから。マスターのように、本格的なものじゃありませ
ん。
好きだっただけです。声が出なくなったので辞めました」


再び曲が流れはじめる。

なだらかなスロープを行くように音色は広がり、力強く、時に弱く、まる
でマスターが歩いてきた道を思わせるように。


「君のおかげで、やぶへび(つつ)かれちゃったんだからね。
ちゃんと歌えなきゃ、家に帰さな
いよ。一週間ここで罰当番だ」

「そっ・・そんな!練習はしましたけど・・その・・何年振りかで声が・・・」

いきなりのマスターの厳しい宣言におどおどと、親になってもトモ君のそんなところは変わって
いなかった。

ピアノを弾くマスターの顔は、とても穏やかだった。

溢れ出る音色は、そのままマスターの澄ん
だ心を表すかのようだった。

前奏が終わりに近づき、トモ君が静かに目を瞑った。


「透、トモ君あなたがお手本だって言っているのに、また退治するの」

「よけいしておかないとな。真澄・・・お前には俺だけだ」



  あなたの燃える手で あたしを抱きしめて

  ただ二人だけで 生きていたいの


声量あるカウンターテナー(変声を過ぎた男性が裏声や頭声を使って女声に相当する音域を
歌うこと)の、見事な声で歌は始まった。


  ただ命の限り あなたを愛したい

  命の限りに あなたを愛するの



―篠田君、僕は女性になりたい。心と同様に体も女性になりたい。この男の体が苦痛なんだ。

なのに、日ごと体は成長してますます男になっていく。僕は君に抱かれたいと思う。
思えば思う
ほどこの体が苦痛でたまらない。・・・僕は女性になる―



  頬と頬よせ 燃えるくちづけ

  交わす喜び 



―真澄、ずっと好きだった。でも俺は男には興味ないから、抱きたいなんて思わなかった。
抱く
対象はあくまで女だ。ただお前とは一緒にいればそれで良かった―


―篠田君・・・―


―良かったはずなのに・・・。お前が女の体になっていた時は驚いたけど、不思議なほど違和
感なんてなかった。
正直嬉しかった。綺麗で華奢で・・・最高だ―



   あなたと二人で 暮らせるものなら

   なんにもいらない 

   なんにもいらない あなたと二人
 
   生きていくのよ



トモ君の歌声が私たちの思い出を呼び起こす。


―透が私を離さない。

 ああ・・・そうだった。

 私はいつも抱かれていたの。

 こんなふうに抱かれていたの―



   あたしの願いは ただそ・・れ・・・

   ・・・・・・・・・・・・・・



トモ君・・・。透に泣き虫って言われるわよ。

しっかり歌わないと、家に帰してもらえないんだから。

パパ、頑張って。



   固く抱きあい 燃える指に髪を

   からませながら いとしみながら



「真澄?疲れたか・・・少し寝るか」

「いやよ、寝ないわ。せっかくみんなといるのに」



   口づけを交わすの 愛こそ燃える火よ

   あたしを燃やす火 心とかす恋よ



「ねぇ、透・・・」

「ん・・・」


―もしあなたと出会っていなければ、私はどうしていたかしら。

体と心の違和感に苛まれながらも、これが現実なのだとあきらめていたかしら。

今でも時々、夢ではないかと思う時があるのよ―


こんな愛の形容(かたち)もあるのだと。




―真澄・・・。こっちへ来い―  (上原・・・。こっちへ来い)



                                 完



※ 愛の賛歌(本文中、トモ君が歌ったタイトル名)

※ 作曲 マルグリット・モノー

※ 訳詩 岩谷 時子







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